ずっと傍にある気がしていた。
ずっと傍にあったはずだった。
気付けば寒くなった右隣りの空白を、埋める者などあるはずもない。
お前以外に何一つとして。
【Lose Sight】
寒さに目を醒ます日が続いている。
外は木枯らしが吹いて、景色はすっかり冬支度の白々しい空が俺を見下ろしていた。
「不愉快窮まりねぇな…」
コートを着込んで部屋を出た。
一人分の靴音が虚しく響く廊下に擦れ違う者もなく、ふと、あいつの事を思い出す。
「風邪…治っただろうか…」
幻騎士が風邪を引いた。
そう人伝いに聞いたのは2日前の事。
その頃には色々と尾鰭が付いていたが、もう大分良くなっていると聞いていた。
長い間一つ屋根の下で生活していたにも関わらず、奴が風邪を引いた事など一度もなかったと思う。
妙に人間味のない男だった。
淡い色の肌に差す血肉の紅、神秘的な若葉色の瞳、表情の乏しい目元、言葉の足りない口元、
それが幻騎士の全てだった。
「遠い…」
不意にそう呟いた自分の声に驚いて、口をつぐむ。
愛していた訳ではない。
ただ、隣にあいつが居ない。
「お見舞いにお出でよ。」
白蘭からの急な連絡に、何かと思えばいきなりそう言われた。
「は?」
「だから、幻チャンのお見舞い。もう大分良くなってるからさ、安静にって言っても暇そうにしてるんだ。」
それで俺を呼ぶ訳が解らなかったが、冷やかしに行くのも悪くない。
「どこに居るんだ。」
軽い気持ちでそう問い返した。
それが白蘭の悪戯とも知らずに。
「…僕の膝の上。」
俺は思いっきり受話器をたたき付けて電話を切った。
「白蘭ッ!」
白蘭の執務室はもぬけの殻で、苛立っていると隣の部屋の扉が開いた。
「いらっしゃい、こっちだよ。」
そこには不敵に笑う白蘭が立っていた。
俺が部屋へ入ると分厚い扉がガチリと閉まり、暗い室内にポツンと置いてあるベッドに目が留まる。
ベッドの上にはシーツに包まった白い固まりが一つ。
それが幻騎士であろう事はすぐに察しがついた。
「今、寝てるから静かにね。」
白蘭がそう言うので馬鹿正直に俺は息を殺した。
白蘭がそっと近付き、頭まですっぽりと被されたシーツをめくると黒髪がサラリと流れ、
幻騎士が死んだように眠っていた。
ここまで人が近付いて居るのに起きないとは、こいつが武人である事を思えば正直考えにくい。
「何をした?」
俺が尋ねると白蘭は悪びれずに笑顔で答える。
「筋肉が弛緩してるだけだよ、頭はもう起きてるんじゃないかなぁ?」
そう言って白蘭が幻騎士の頭を軽くポンッと叩くとようやく目をうっすらと開けた。
「白蘭…さま…」
虚ろな瞳は視点が定まらず、空を仰いでいる。
「見えてないんだ、多分声も。」
白蘭がそう言っても幻騎士は微動だにしない。
どうやら本当に視覚と聴覚がイカレてるらしい。
「白蘭様…そこにいらっしゃるのでしょう?」
小さな声で幻騎士が白蘭を呼ぶ。
シーツの裾から伸びた腕には手錠が掛けられている事に気付いて、俺はギョッとした。
その手錠は鎖で首と繋がり、首輪の鎖はベッドの向こうの柱に繋がっていたのだ。
「お前ッ!」
白蘭は憤慨する俺を無視し、その手をそっと取る。
「可愛いでしょ?彼によく似合ってる。」
そう言って幻騎士の頬を撫で、前髪を掻き上げる。
その額の柔らかさはかつて俺だけが知る物だった、その黒髪のしなやかさも、肌の香りも。
「今は僕の物だ。」
俺の心中を見透かしたように白蘭が嘲笑う。
「全部、全部ね。」
白蘭の指先が幻騎士の耳に掛かる。
「やっ、」
触覚は残っているらしく耳を触られた幻騎士が声を上げた。
けして顕著ではないその表情の変化もよく知っている。
微かに寄せられた眉間に、震える唇。
次第に耳から首へと走る指にその頬が色付く。
「白蘭様、お戯れを…」
幻騎士が聞こえていないのを良い事に白蘭は何も言わずにその華奢な指で幻騎士の顎を撫でる。
まるで飼い猫をあやすように。
「悔しいんだろうねぇ、γ、君の情夫は今や僕のペットも同然だ…いや、ペット以下かな、あまり優遇してあげてないから…ほら?」
白蘭がそう言って幻騎士の体を覆っていたシーツを剥がす。
「ッ!」
現になったその肌には無数の傷痕、人一倍繊細な耳を嬲られ、焦らされ、
白い肌は赤見が差し、汗でしっとりと色濃くなっている。
俺はいたたまれずに目を反らした。
「ミルフィオーレファミリーが出来て一週間した頃かな、幻騎士が見知らぬ傷を付けて帰って来た事があるんだけど…」
それは、煙るシャワー室で起こった密会。
「…あれは君の仕業でしょ、γ?」
白蘭の笑みが凍りの刃のように突き刺さる。
「あの後、彼がどんなお仕置きを受けたか知ってるかい?」
そういうと白蘭はベッドの反対側に回り、後ろから幻騎士を抱きすくめた。
ゆっくりと、蛇が獲物を飲み込むように、ゆっくりと幻騎士腰のから胸へ、手を滑らせ、
その上体を起こさせると自らの肩に頭をもたれ掛からせる。
「ん、」
幻騎士の胸には大きな傷痕。
その胸を這う指先が急所を捕らえてジワジワと締め上げるように欲情を焚きつける。
「可哀相に、あの日の晩はずっと泣き叫んでいたよ…どんなに声を涸らしても、僕以外、誰にも聞こえないのにね…」
白蘭は愛しむようにそっと幻騎士の胸から腹部へと撫で回し、次第に核心に近付く指先に反射的に幻騎士が呻き出す。
「ひたすら、何も知らないと言い張って、何を護ろうとしてたんだろうね…」
「あ、はぁ…」
「幻騎士は許しを請うばかりだった…」
「や、あ…ん…」
「「慈悲を…」そういって果たされぬ苦しみに濡れた姿を僕に曝して、」
白蘭の言葉が、俺の心を掻き乱し、目の前で他の男の弄り物にされる幻騎士の姿態が体を掻きむしる。
「いや…びゃくらん、さま…」
「……だから教えてあげたんだよ。」
「…あ、」
「お願いの仕方をね…」
下肢を割られ、幻騎士の体が限界にまで追い詰められて高ぶっている様をただ、立ち尽くして見ていた。
見せられていた。
わざと塞がれた出口が白蘭の指を求めるように吸い付いて真珠の涙を零す。
聞きたくない。
「…もっと、やさしくシて下さい……びゃくらんさま…」
それは魔法の呪文のように幻騎士を解き放ち、幻騎士は甘い遠吠えで咽を震わせた。
白蘭は俺を見て笑っていた。
俺はそのまま無気力に俯せに崩れ落ちる幻騎士を受け止める事も出来ずに、
伸ばした手だけが遠い空虚を掻いた。
「触りたいんじゃないの?良いよ、貸してあげても。」
白蘭が欲望と理性に揺れる俺に悪魔のように囁く。
目の前には火照る体を投げ出して横たわる幻騎士の媚態。
こんな良いように躍らされて堪るか、と叫ぶ心を蔑むように下肢を走る衝動が理性を突き破る。
こいつを、これ以上傷付けたくはないのに、この事が知れればどれだけ傷付くかも目に見えている。
「ほら、こんなに欲しがってるじゃない…」
その声は頭の後ろから降ってくるように俺の背中を押す。
「幻騎士…」
伸ばした手の指先に、その肌の感触を知ってしまったら、もう後戻りは出来ない。
狂ったように色めき立つ体が俺の全てを盲目にした。
目の前には暗闇と堕ちた体。
その標の行き先は誰も知らない。
end.
