それはある夜の事。
紺青の空に浮かぶ月と、その白い横顔に柔い薄紅の雪が口付けを落とす。
それを眺めている内に、『羨ましいから』と手を伸ばした。
酔いが回れば天の星も廻る。
気が付けば同じ暁を仰いでいた。
はずなのに、
【酒月に薄紅の雪】
あれはいつの事だっただろうか。
甘い甘い酒を杯に注いで、赤いその水底に月が沈んでいた。
「酒に朧、花に月影。」
呟く白蘭は摩天楼に浮かぶ月を眺めながら自らの執務室で晩酌の真っ最中。
その傍らにはお酌に借り出された幻騎士がいた。
二人は長いソファーの両端に腰掛け、赴き深い着物姿はいかにも風流好きの白蘭の誂えらしい。
広い執務室の大きなガラス窓の向こうではキラキラ光る町並みも静かになり始め、シンとして寒い。
「幻ちゃん、」
白蘭が空になった杯を差し出す。
幻騎士は何も言わずにその杯を満たす。
甘い酒の香りが鼻をくすぐる。
「幻ちゃんも飲む?」
一口にそれを飲み干し、笑顔で酔いを誘う白蘭の薄い唇が囁く。
僕は何か企んでいる。
「いえ、私は遠慮しておく…白蘭様と杯を共にするなど、おこがましい事。」
また、心にもない事を、そう言いたげな視線を投げ掛ければ幻騎士が目を反らす。
二人の距離は人一人が座れる空間があるだけ。
腰掛けたソファーが微かに歪む音を立てる。
「…白蘭様、」
「ん?」
幻騎士の言葉に対する返事は彼の顔のすぐ下から響いた。
「良いじゃない、幻ちゃんのひざ枕。」
足を投げ出し、幻騎士の太腿に頭を委ねる白蘭が微笑む。
恐らく、幻騎士の膝枕は白蘭が思い描いたように柔らかくもないし、心地良くもないだろう。
しかし、彼は満足そうに笑った。
「…寒いね、」
アルコールが入っているはずの白蘭が呟く。
窓の外からの明かり以外はいっさい燈っていない暗い室内は殺風景でどこか寂しい。
「……、」
幻騎士が言葉に困っている。
白蘭が窓の外を見るために寝返りを打つと白い髪の毛がくすぐったい。
体の接する場所がじんわりと暖かい。
それでも寒いと感じるのは何故だろう。
それはこの寒色と青い白の支配する部屋のせいだろうか、
それとも探り合うような油断ならない関係のせいだろうか。
傷付け合う二人のせいだろうか。
敵同士として出会ったのは抗争の戦線。
初めて対峙した時、体を駆け巡ったあの痺れは背中を刺すような衝撃と緊張感とが織り成す不協和音となり、
絡んだ視線は次第にそれぞれを毒していった。
交わした互いの刃と炎の隙間で流れた僅かな時間と瞬間の中で白蘭は獲物の魅力に狂い、
幻騎士は狩られる定めを悟ったのだ。
そして二人は今、同じ檻の住人となり、自ら作った鉄格子もない架空の牢獄で酒と月に酔って笑っている。
偽りの平穏が脳を腐らせるように、酒は甘い香りで安易な快楽を手招く。
「あぁ…」
幻騎士の膝にもたれ、後頭部を向けたままの白蘭が小さく呟いた。
しばらくの沈黙を破るその声と声を発する体の微量な振動が幻騎士の警戒心を解す。
「雪だ…」
見れば窓の外にはチラホラと雪が降り始めていた。
「どうりで寒い訳だよ、」
そういうと白蘭はコロリと体を動かし幻騎士を見上げる体制になった。
「…何か羽織物をお持ちしようか?」
幻騎士が尋ねると白蘭は首を振る。
そして何か考えている。
一瞬、
その考えを口にする前に舌で唇を舐める仕種は滅多に見せないが甘えたい時の彼の癖である事を幻騎士は知っている。
「何がお望みで?」
幻騎士が再び尋ねると白蘭は悪戯に微笑んだ。
「幻ちゃんが抱き枕になってくれたら暖かいかも。」
言い終わるが早いか、手元の杯が落ちるのが早いか、白蘭はふわりと幻騎士の首に手を回し、縋るように彼を手繰り寄せた。
幻騎士の震える柔らかな唇を捕らえて優しくついばめば、二人の間の僅かな隙間に甘い香りが立ち込める。
白蘭が更に深く幻騎士の下唇を吸うと互いの身体の芯に熱が燈りだし、
その悪戯のような囁き合いは果実が熟す音を立てながら激しくなっていく。
「白蘭様…」
首に回された腕の拘束から逃れる術はない。
「幻騎士、もっと味わわせてよ…君を…」
膝に頭を乗せていたはずの白蘭はいつの間にかソファーに座る幻騎士を跨ぐように覆いかぶさる姿勢になっている。
細くしなやかな指先で頬をなぞり、挑発と侮蔑、嘲りと優越を混ぜ合わせた視線で幻騎士を見下す様に背筋が凍る。
「暖めて…」
白蘭はそういうと幻騎士をその腕の中に包む。
寄り添えば体は暖まる、しかし二人の距離はこんなに近くて遠い事を思い知らされるのだ。
それでも、いつかは失われる、この悲しい繋がり合いに終りが来ないのは何故だろう。
「アイシテル…」
白蘭が幻騎士の耳元で囁いた。
「愛してる、君の事を、」
誰もが躊躇うような、けれど何より強い言葉。
それだけで何もかも忘れ、この薄っぺらな関係に溺れたくなる。
それこそ真っ赤な嘘と白い雪のように曖昧なモノだと解っていても。
「白蘭様…」
それ以上、二人が言葉をかわす事はなかった。
撫でる指と這う舌の甘さに酔う。
錯覚のように白い雪が淡い紅に彩られる寒空に、
ただ、
重なる二つの月が幻影となり、二人の姿と良く似ていた。
そんな気がした夜だった。
空が白み出した頃、未だ降り続く雪に音を失った街は横たわったままだ。
幻騎士が寒さに目を覚ますとそこには毛布一枚と自身の体があるだけだった。
「何故…」
何故、こんな皮肉な事をするのだろうか。
何故、貴方はここに居ないのだろうか。
幻騎士は答えの返って来ない問いを頭の中で反芻する。
「そんな言葉、信じられない…」
愛してる。
幻騎士はいつも白蘭のそんな言葉に惑う。
それでも朝焼けの空に想うのは、
不意に見上げた暁を二人で焼き付けた光景を、
それだけは信じて止まない愚かさを、
『月に口付けるあの雪が恨めしい。』
そう言った貴方の卑しさを、
愛と呼ぶならこれは嘘吐きの追い掛け事だと思った。
だからこんなにも寒いのだ、
薄紅の雪が降る今日は。
end.
