あれが夢でないのなら、

あれが思い違いでないのなら、


誰かオレを殺して、


そして闇に葬れば、無かった事にならないだろうか。







ワスレヌキオク










咽の痛みで目が覚めた。


暖かな毛布に裸のままで包まって、縮こまる腕を伸ばして気付く。


「水…」


咽がカラカラだ。



病み上がりの体に容赦ない白蘭の加虐行の為にあちこちが悲鳴を上げ、仕舞いにはおかしな薬を打たれて意識を失った。

次に気が付いた時には視覚と聴覚がイカレていた。

水差しからコップに注いだ水を飲み干し、ようやくはっきりしてきた頭に蘇る昨夜の情事。

手が震えて握ったコップを落としそうになり、勢いよくテーブルに戻す。


今は誰もいない部屋に響く硝子の音。


「……γ、」


昨夜、自分を抱いた腕、あの無骨で乱暴な、けれどもどこか優しい指の温もり。

忘れる訳がない。


例え、目が見えずとも、耳が聞こえずとも、この体が覚えている。

彼に愛されていた体が、昨夜、彼はここにいたのだと叫ぶ。


そして、その確信に近い疑惑はオレを失意に貶める。


「……最悪だ。」


昨夜、γがこの部屋にいたのなら、最も見られたくない相手に最も見られたくない姿を曝した事になる。

白蘭に良いように弄ばれ、唱婦のように声を上げ、許しを請い、乱れた姿を見られた。


かつて情を交わした相手に。


「何故、こんな事に…」


言い知れぬ後悔に震え、毛布に包んだ体を抱きしめる。

こんなに自分の肩は頼りなかっただろうか、こんなに自分の腕は冷たかっただろうか、こんなに自分は弱かっただろうか。


部屋の寒さに脳裏に過ぎる白蘭の笑み、また、あの人はオレを悩ませて楽しんでいるのだ。

あの悪戯な微笑みが自分の全てを狂わせた。


「γ……」


その名を意味もなく口にすれば弱い心が砕けそうになる。

彼の欲情だけの愛撫でさえも悲しい程に優しかった気がしてくる。

暖かいあの指先が懐かしくて堪らない。


「答えてくれ…お前は昨日、何を見たんだ…」


そして何を思ったんだ。

何を思いオレをその腕に抱いたのか。


「……γ…許せ、そしてオレを憎め…頼むから、優しくしないでくれ…」


誰にも聞こえるはずのない願いが口を動かす。

捨て切れない懐古の念がこの心を弱くする。

口にしたらきっと負けてしまう。

ただ、思うだけなら許されるだろうか。



会いたい。


γに会いたい。


今すぐにその包容の中で眠ってしまいたい。


許されるなら、帰りたい。

そして、この名前をもう一度呼んで欲しい。


許すと言って欲しい。



「あぁぁ……」


気付けばオレはベッドの上で泣き崩れていた。


今、自分を支えるものは何もない。

自分自身で大地に足を着け、必死で立ち続けて、いつかこの足も腐り崩れた時、オレは一人なのだ。

全て過去に捨てて来た。

大切なものは全て。


小さな悔恨を残して。




そうして手に入れたのはこんな虚しい鳥籠と救われない命だけじゃないか。











「幻さん、」


一週間振りに仕事に復帰したオレに声を掛けたのは同じくブラックスペルの整備士、スパナだった。


「幻さん、ウチ、ジャッポーネに行く事になったんだけど、聞いてる?」


急な事で少し驚き、無言で首を横に振るとスパナはくわえていた飴を口から取り上げて話を続けた。


「今、正一がジャッポーネにいるでしょ?そこの増員にウチとウチのモスカ、それから第三部隊が借り出されたんだ。」


そう言い終わるとスパナは再び飴をくわえ直す。


「第三部隊か…」


あそこは昔馴染みも多い戦闘派部隊。

何より、あの部隊の隊長はγだ。

今、最も会いたいが、会う事も許されない相手。

会ってしまったらきっとオレは精神がどうにかなってしまうだろう。


遠く海の向こうへ行ってしまうというなら、その方が都合が良いかも知れない。


「…幻さん、大丈夫?」


スパナがそう言って俯いた顔を覗き込んだ。

フワフワの巻き毛と甘い飴の香りが鼻を擽り、ハッと我に帰る。


「…そんなに酷い顔をしていただろうか?」


普段から表情が読めないと言われているのだが。


「う〜ん…ウチは整備士だから…」


内容の掴めない切り返しに黙っているとスパナはそのまま続けて言う。


「幻さんもモスカも同じ、表面では何ともなくても、中身のどこかが壊れると動作に異常が出る。」


その時のスパナの瞳は目が冴える程深い森の色。


「普段なら幻さんこの辺うろつかないでしょ?」


勝手に足が運んだのはブラックスペルの多くが待機しているフロアだった。

何をしているんだ、オレは。


「スパナ…」


「うん?」


自嘲の笑みに顔が歪む。


「オレはどうかしているんだ…」


この体と心は白蘭の毒に侵されている。


「幻さん…」


スパナは何か察したように困ったような表情で言葉を濁す。


「無理しないでね…」


スパナはそう言ってその場を走り去った。

それが彼なりの優しさだった。












数日後、スパナと第三部隊は日本のメローネ基地へと旅だった。

結局、オレはあの後γには会わなかった。

スパナはしばらくの別れを告げに来たが、他の者は誰ひとり訪れる者はない。


恨まれ、疎まれ、全てを一手に引き受けてこの身が崩れ逝くならば、いつか土に帰るだろう。


この悲しみも、苦しみも、後悔も、


焦がれる想いも。




それならばいっそう、一思いに殺してくれ。


この想いごと、この想いに気付いたあの夜の記憶ごと、何も無かった事になれば良い。



忘れぬ記憶がこの身に刻み込まれるその前に、


脆弱なこの体の記憶に狂う前に、








訪れる死が全てを消してくれるならと願う。










end
.